『英語教師 夏目漱石』
今回は僕の愛読書を紹介します。
これは、英文学を学びたい人や英語教師になりたい人に、ぜひとも読んで欲しい本です。
著者の川島幸希氏は秀明学園の理事長。
彼の著書の大半は、どうでもいいような小学校英語の学習書ですが、この本だけは本当に素晴らしいです。
最高の業績だと思います。
英語教師時代の漱石を知るには、この本一冊あれば充分です。
夏目漱石は、もちろん言わずと知れた文豪ですが、作家として名を成す前に、実は英語教師で生計を立てていた時代があります。
そして、漱石は相当高度な英語力の持ち主だったそうです。
現在の中学生に当たる年齢の頃の彼は、漢文が大好きで、対照的に英語は見るのもイヤなほど嫌いでした。
それで、東京府第一中学(現在の都立日比谷高校)を中退して、わざわざ漢文が専門の二松学舎に入り直したのです。
ところが、大学予備門(現在の東京大学教養学部)を受験するために英語の勉強をしなければならなくなりました。
その頃の漱石は、英語に関しては、現在の中学レベルの初歩的な内容さえ怪しかったといいます。
そんな彼が、いかにして、わずか数年の間に、帝国大学の英文科を優秀な成績で卒業し、官費でイギリスに留学するほどになったのでしょうか。
漱石は、好きだった漢文もお預けにして、ひたすら英書を読みまくったそうです。
後に彼は「ある程度、初歩の文法を修めたら、あとはどんどん英文を読むのが良い」と語っています。
本書では、漱石が19歳の時に書いた英作文を、現在の東大生に同じ課題を与えて書かせたものと比較して、彼の英語力を分析しています。
東大生の方は英検一級を持っている帰国子女です。
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それでも、漱石の英語力は今のトップクラスの東大生に勝るとも劣らないものだったようです。
さらに、太宰治の英作文とも比べたりしているのが、非常に興味深いですね。
学生時代の漱石は、英文学を専攻して、「英文で大文学を書こう」という夢を持っていました。
しかしながら3年間、大学で英文学を研究して(当時の大学は3年制)、その夢が到底かなわないものであることを知り、生活のために英語教師の道を選ぶのです。
当時の帝国大学卒業生は、今とは比べ物にならないほどの、正にエリート中のエリートでした。
本書は、英語教師としての漱石を、旧制松山中学(後に『坊っちゃん』のモデルとなった。現・愛媛県立松山東高校)や、旧制第五高等学校(現・熊本大学)、東京帝国大学などの、教え子の回想やその他の資料を通して克明に描き出します。
彼は、どのような教科書を使い、どのような授業や試験を行なったのでしょうか。
当時の教科書は、舶来の英語教科書や、英文学作品が中心でした。
文学は、オリバー・ゴールドスミスや、ド・クインシーといった、今では英文科の学生でも厳しそうな、かなりレベルの高いものです。
中学(現在の中学・高校にあたる)教師時代の漱石は、とにかく、単語と文法にこだわったようです。
そのため、1時間に教科書が数行しか進まないことも多々ありました。
それが、高等学校(現在の大学教養課程にあたる)では、一転して、簡単なところはどんどん飛ばして、ひたすら原書を読む、というような授業に変わりました。
これは、先程の「初歩の文法を修めたら、どんどん英文を読むべき」という、漱石の英語教育方針によるものでしょう。
彼は「GENERAL PLAN」という英語教育プランを提唱しています。
2012年UTSでどのように多くの留学生の研究
各地の中学校の授業を参観して、教師の評価を報告書にまとめたりもしました。
明治期の英語教育がどのようなものであったか、本書には克明に描写されています。
また、漱石は終生、英語の発音には注意を払っていたようです。
五高時代には、入試問題作成に携わり、聴き取り試験(リスニング)では自ら問題文を読み上げました。
彼が、生徒・学生に対して、どのように接し、英語教育について、いかなる考えを持っていたのかが、この本を読むと非常によくわかります。
教師としての漱石は、授業態度には厳しかったが、人間的には、大変面倒見が良く、温かい先生でした。
漱石は「日本のNationalityは誰が見ても大切であり、たかが英語の実力くらいと交換できるはずがない」と言います。
これなどは昨今の英語崇拝主義の文部科学省役人に聞かせてやりたいセリフです。
もしも、漱石が作家にならずに英語教師を続けていたら、日本の英語教育も大きく変わっていたかも知れません。
我々が目標としているシェイクスピアについても、漱石は第五高等学校や帝国大学で『ハムレット』、『マクベス』などを学生に講義しました。
我が国の文豪とイギリスの文豪との間に、こんな接点があったとは。
その授業風景も一部、本書の中で再現されています。
ちょうど、この時期、早稲田大学で坪内逍遥がシェイクスピアを講義しており(何という時代でしょう!)、学生の関心が極めて高かったので、漱石の授業も、立ち見が出るほどの評判だったそうです。
当時(明治期)の英語教育は、今では考えられないほどレベルの高いものでした。
現在では、高校生にシェイクスピアを(原文で)教えるなど、絶対にあり得ないでしょう。
理数 - 8の平方根です
もちろん、一部のエリートだけが外国語の教育を受けていたのです「から、今の大衆化した英語教育と同一視はできません。
けれども、両者を比較することで、100年以上もの時を経てもなお解決されない、日本の英語教育が根本的に抱えている問題点も浮かび上がってきます。
漱石は「読書力が全ての基本である」と言っています。
にも関わらず、昨今の英語教育においては、文学教材は不当に軽視され、会話ばかりが重視されているのです。
戦後まもなく、高校の英語教科書にシェイクスピアの作品の原文を取り上げていた時代がありました。
『ジュリアス・シーザー』における有名な「アントニーの演説」の全文を8ページにわたって掲載していたそうです。
現場の先生や生徒からの「難し過ぎる」という非難で、すぐに姿を消しましたが。
それは極端な例だとしても、戦後も、1970年頃までは、バートランド・ラッセルやサマーセット・モームの随筆が英語教材として重用され、大学入試にも頻繁に出題されていました。
そもそも、95パーセントの日本人は仕事で英語を使うことなどないのです。
それなのに、「外国人に英語で道を教えられること」を中学・高校の英語教育の目標にするなど、狂気の沙汰であります。
一体、いつから日本の英語教育は進むべき方向を、こんなに誤ってしまったのでしょうか。
現在の英語教育は、「実用英語」の名の下、明らかに会話以外の要素を無視しています。
かつて日本人は、英語を「読めるけれども、話せない」と言われてきましたが、今では「読めないし、話せない」という状態に堕してしまっています。
僕も「会話偏重」の英語教育を受けた人間です。
文学作品らしきものは、ほとんど教科書に載っていませんでした。
ですから今、英文学の原書を読むのに苦労しています。
もっとも、僕の英語力がないのは、教育のせいではなく、自らの不勉強が原因ですが。
漱石はまた、「英語教育は道徳教育である」と言っています。
深い内容を持った英文学教材を通して、英語だけではなく、人生哲学を教えたのです。
ところで、この『英語教師 夏目漱石』は、結びの部分が素晴らしいですね。
大変味があり、余韻を残すような終わり方です。
本著者の文学的センスの賜物でしょう。
僕は初版が出た時(2000年)、まだ学生でしたが、この本を高田馬場の芳林堂書店で見つけ、瞬く間に引き込まれてしまいました。
それ以来、もう幾度ともなく読み返しています。
かくも興味深い本です。
皆さんも、ぜひ一度読んでみて下さい。
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